【十で神童十五で才子二十過ぎればただの人】と言われるのはなぜ?

ことわざ・慣用句

あなたの周りにはいませんか?

「昔はこれでも神童と呼ばれたんだ」などと自慢するような人。

私は今までに何人か遭遇したことがあります。

真に受けて聞きませんが、そう言われた過去を自慢したくなるのは、今は平凡な人になっているからですよね。

「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」という言葉がピッタリ当てはまるような大人たちは意外と周りにいるのではないでしょうか。

今回は「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」になってしまう理由について考えてみました。

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「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」とは

「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」の意味です。

幼いのに優れた才能を持って十歳くらいまでは神童と呼ばれていても、十五歳くらいになると同世代の子たちと比べて少し優秀に見える程度になる、大人になるとすっかり普通の人になってしまうことです。

天才少女とか天才少年としてマスコミに取り上げられて、一躍有名になってもてはやされたのに、成長とともに普通になって消えていった子供たちは数えきれないほどいます。

マスコミのおもちゃにされる子供たちは可哀想ですよね。

ですが、「こんな小さな子供が!」と大人を驚かせるような才能を見つけると、周りは「神童」と騒ぎ立てたくなる気持ちもわからなくはありません。

そういう子供が昔から数多くいたのではないでしょうか。

神童と呼ばれるのも、素直に喜べることではないのかも知れませんね。

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神童が普通の人になる原因

「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」という言葉があるくらいなので、神童と呼ばれた人が大人になってもその才能を発揮し続けることは難しいのでしょう。

しかし、それはなぜなのか不思議に思ったので自分なりに考えてみると2つの原因にまとまりました。

個人的な意見なので、正解か不正解かの判定は勘弁してくださいね。

調子の乗ってしまった

まず考えたのは、周りから神童と呼ばれて「すごいね」と言われ続けているうちに、子供も調子に乗ってしまい、努力しなくなってしまうからではないかと思います。

自分は神童と呼ばれるほどの天才だから、努力しなくても大丈夫だと思ってしまえば、他の子供たちの努力の陰にかすむようになってしまいます。

ほんとに何もしなくても才能を持っている天才もいますが、天才と呼ばれる人の大半は「努力の天才」だと言われます。

子供なので、周りの大人の声で影響を受けてしまうので、自分の才能に溺れてしまい、そのまま普通の人になってしまうのではないでしょうか。

子供らしくなかった

神童と呼ばれる子供は、大人顔負けの才能を見せるからそう呼ばれます。

その才能が子供らしくない分野であれば、とくにスゴイ才能があるわけじゃなくても、「その年齢のわりに・・」ということで注目されることもあるのではないでしょうか。

一般的には子供がすることではないことを、親の影響などで幼い頃に始め、それが上手くできれば親は驚きます。

それでもっともっとレベルの高いことに挑戦させてクリアできてしまうと神童と呼びたくなるのでしょう。

幼い子供が大人の演歌を上手に歌ったり、ギターやドラムなどを小さな子供が上手く演奏したりするのを見ると、つい神童と呼んでしまうのかも知れません。

ですが、子供なのにすごく上手に見えたのが、成長するにしたがって普通に見えてしまうこともあるのではないでしょうか。

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まとめ

「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」は、そう呼ばれていた子供には酷な言葉です。

自分から「神童です」と言い出すわけもないので、周りの大人によって振り回された結果ですから。

でも、大人になってから「子供の頃は神童と呼ばれたんだ」と自慢している人は、それほど気にしていないのかも知れませんね。

というか、子供の頃の神童自慢をする人のほとんどは、きっとそれほどでもなかったのではないでしょうか。

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