「やはり野に咲け蓮華草」というのは、有名な俳人が詠んだと言われています。
聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
では、聞いたことがある方の中で、「やはり野に咲け蓮華草」の意味を理解している人はどれほどいるでしょう。
とくに調べたわけじゃなくても、何となく想像できる人もいると思います。
難しい言葉を使っていないので、理解しやすいはずです。
あまりピンときていない方もいると思うので、今回は「やはり野に咲け蓮華草」の意味だけじゃなく、語源として伝わっている由来についても解説したいと思います。
ぜひ一緒にチェックしてみましょう。
「やはり野に咲け蓮華草」の意味とは
「やはり野に咲け蓮華草」とは、それぞれに適した環境、相応しい場所にあることが重要だという意味です。
たとえとして蓮華草を使ったのは、誰もが目にする野の花なので、意味が伝わりやすいからではないでしょうか。
蓮華草のような野に咲く花は、そこに咲いているからこそ美しく見えるのに、わざわざ摘み取って家に飾ってしまえば美しさが半減してしまいます。
野に咲くからこそ美しい蓮華草から、誰しも相応しい場所があり、そこにいるからこそ真価を発揮できるという意味が含まれているのです。
適材適所という言葉がありますよね。
誰にでも優れたところがあるので、その実力を発揮するためには、適した場所があるという意味です。
蓮華草が美しく見えるための適所とは、家の中ではなく野原のような場所なのでしょう。
「やはり野に咲け蓮華草」の語源
「やはり野に咲け蓮華草」は、ある俳人が作った俳句が由来だと言われています。
「手に取るな やはり野に咲け蓮華草」という俳句です。
語源になったと言われるエピソードは、友達への忠告から始まります。
播磨の瓢水という俳人の友達に、遊女の見うけを考えている男がいました。
遊女として遊郭で働く女性は、家が貧しいために身売りされたり、お金のために売られたので、借金を返すまでは自由の身にはなれないのです。
瓢水の友達の男は、ある遊女に情けをかけて、借金を代わりに返して自分の手元に引き取ろうと考えていました。
そこで「やはり野に咲け蓮華草」という句が生まれたと言われているのです。
遊女は遊郭の中にいるから華やかで美しく見えるのであって、遊郭の外に出て、普通の姿で暮らすようになれば、輝きは失せてしまうのでは・・・という忠告なのです。
遊女の身うけ失敗談
今の時代には遊女はいませんが、吉原のような歓楽の一大拠点があった時代には、遊女の身うけに関するエピソードが古典落語にもちりばめられています。
「やはり野に咲け蓮華草」を想像させるような身うけの失敗が話に入っているのが「子別れ」です。
古典落語の「子別れ」の主人公は酒癖も女癖も悪い大工の熊五郎という男です。
熊五郎が女房の前で酔っ払いながら遊女の惚気をはじめて、呆れかえった女房の堪忍袋の緒が切れて、一人息子を連れて出ていってしまいます。
熊五郎は遊女を見うけして女房として迎えたのですが、遊女だった時は美しく見えたのに、家に置けば輝きもなくなります。
しかも家事もしないでゴロゴロと寝ているだけという始末。
結局は別れることになり、出て行った女房とひとり息子への未練が募る・・という話です。
「子別れ」の中では、熊五郎が遊女を身うけしたことを後悔する時に「手に取るな やはり野に咲け蓮華草」の句を用いるのです。
「やはり野に咲け蓮華草」の類義語
「やはり野に咲け蓮華草」のように、どんなものにも相応しいところがあると言う意味の言葉には「花は山 人は里」があります。
それぞれに相応しい場所にあることの大切さを表す言葉です。
まとめ
「やはり野に咲け蓮華草」という言葉の意味を理解した時に、私は動物園や水族館に連れてこられた生き物が真っ先に頭に浮かびました。
少し飛躍し過ぎかも知れませんが、野生の生き物と野に咲く花は通じるものがあります。
それぞれに相応しいところにいなければ、真価は発揮できないのではないでしょうか。