「大疑は大悟の基」(たいぎはたいごのもとい)という言葉を、日常生活で使っている人を見たことはありません。
難しい言葉ですよね。
この言葉は禅の教えから生まれた言葉のようなので、仏教に通じる意味があるのでしょう。
ですが、仏教の教えは人が生きる上でヒントになることが沢山あります。
「大疑は大悟の基」にも、きっと深い意味が込められているのではないでしょうか。
今回は「大疑は大悟の基」の意味や、どのような時に使える言葉なのか調べています。
「大疑は大悟の基」とは
「大疑は大悟の基」とは、禅の教えの中にある「大疑のもと、必ず大悟あり」という言葉がもとになったと言われています。
禅宗といえば、座禅や禅問答などの修行を思い浮かべます。
禅宗の修行の内容は私たちにはわかりませんが、仏教では「悟りを開く」ために修行を積んでいくのだと聞きます。
つまり「大疑は大悟の基」とは悟りを開くためには、大疑が必要だという意味なのです。
ちょっとわかりにくいのですが、「悟り」を一般の言葉に置き換えて考えてみましょう。
「悟り」は「理解すること」や「気が付くこと」という意味で使われます。
「理解する」ためには色々と考えたり、調べなければいけません。
そのためには「なぜ?」と疑問を持つことが必要ではないでしょうか。
学校で教わる勉強も、ただ一方的に教えられることを暗記するだけではなく、「なぜだ?」と疑問を持つことで理解を深められます。
ただ暗記するだけではなく、自分の頭で理解したことは簡単に忘れることもありません。
疑うことが理解を深めることにつながるというのが「大疑は大悟の基」が伝える意味なのです。
「大疑は大悟の基」の使い方
「大疑は大悟の基」という言葉を普通の会話の中で使うのは難しいと思います。
もしも使うとすれば、子供が色々なことに疑問を持ち始めて、親などに「どうして?」とか「なぜ?」などと質問攻めにするような時ではないでしょうか。
質問ばかりされて困ったとしても、それは子供が様々なことを悟るために必要な成長段階なのです。
次々に疑問を見つける子供の様子を見た時などに「大疑は大悟の基」という言葉を思い出すのではないでしょうか。
「大疑は大悟の基」の類義語
「大疑は大悟の基」と同じ意味を持つ言葉には「迷わぬ者に悟りなし」や「疑わぬ者に悟りなし」があります。
「大疑は大悟の基」よりもわかりやすい表現なので、同じ意味であれば「迷わぬ者に悟りなし」や「疑わぬ者に悟りなし」の方が使いやすいですね。
理解するため、気付くため、感じるため、知るためなど、人が成長していくためには、迷いや疑いから深く思うことが大切だということです。
「大疑は大悟の基」や「疑わぬ者に悟りなし」のように「疑」という言葉が使われるので、だれかれ構わず疑うことと勘違いされそうです。
この「疑」は怪しむ意味ではなく、真実を知りたいと思う気持ちのことなので、間違えないようにしましょう。
仏教が由来になった言葉は、意味を考えると興味深いものです。
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まとめ
「大疑は大悟の基」という言葉には、とても深い意味があることがわかりました。
禅宗では禅問答という修行があります。
この禅問答という修行は、疑問を問いて、それに答えるのです。
まさに疑問を持つことが悟りのための修行ということなのでしょう。