「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」という言葉があります。
いまどき折檻(せっかん)なんて言葉を使うのもどうなのか・・というい感じがします。
「折檻」は体罰のことを示す言葉だと思われるからですよね。
ですが、折檻は体罰に限ったことではないのです。
とても厳しく叱るとか、強い言葉で諫めることも含めて折檻というのです。
昔はいたずらをしたり、親の言うことをきかないと押入や物置などに閉じ込められた子供の多かったのですが、それも折檻に含まれます。
なので、体罰に限定しているわけじゃないことを理解した上で、「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」という言葉の意味を考えてみましょう。
「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」とは
「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」という言葉には、親の愛情の深さを伝える意味が込められているようです。
この言葉の意味を理解するためには、その場面を想像してみるとわかりやすいと思います。
子供が親を怒らせるような悪いことをしてしまいました。
母親は子供を強く叱りつけます。
その様子を隣の人が見て、「まあまあ、そんなに怒らなくても」と仲裁に入ります。
そしてなぜそんなに母親を怒らせることになったのかと子供に問いかけます。
その時の隣人は子供に対してやさしく接しているのですが、子供は仲裁に入った他人を恐ろしく感じます。
その理由は、隣人は他人なので子供に対して愛情を持っているわけではありません。
他人が仲裁に入ることで、自分のためを思ってきつく叱ってくれる母親の愛情を改めて感じる・・。
このような子供の気持ちを「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」と表しているのです。
他人が間に入ることで、親に対する甘えの気持ちと親の愛情を同時に感じるという深い意味があるのですね。
「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」の類義語
「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」と同じ意味の言葉に「親の打つ拳より他人の摩るが痛い」があります。
これは親が子供を叱る時にげんこつで叩くよりも、他人に摩られる方が痛いということなので、「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」よりもさらに極端な表現です。
それほど親の愛情の深さを表したかったのでしょう。
ですが、今の時代はどんな理由があろうとも、体罰はダメですから、使い難い言葉になりました。
「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」や「親の打つ拳より他人の摩るが痛い」という言葉が生まれた時代には、親が子供をしつけるためにげんこつで頭を叩くことも当たり前だったのでしょう。
愛情があれば許されると思い込んでいた人たちがほとんどだったのだと思います。
今の時代になっても、学校の教師や親が教育のために下す体罰を肯定する人もいなくならないのですから、昔は当然だったのだと思います。
何度も繰り返しますが、どんなに愛情をもっていても、体罰は許されないので、正当化してもダメなものはダメだと理解しなければいけません。
「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」というのは、子供が親の愛情を感じられるかどうかなので、愛情があれば痛くないなんて勘違いして欲しくないものです。
他人の言うことの方が効果があることも
親子の愛情の意味を伝える「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」ですが、もう少し違う意味も含まれているような気がします。
それは、他人の言うことの方が素直に聞けて効果があると感じることがあるからです。
たとえば勉強を教えるプロである教師でも、自分の子供に勉強を教えると冷静になれずについ感情的になってしまうことがあると聞きます。
子供の方も同じです。
他人に教えられると、素直に聞こうとするのですが、親から教えられると素直になれずに反抗的な態度になったりして、親子喧嘩になることがあります。
他人同士の方が冷静になれるのは、親子の甘えがないからなのではないでしょうか。
「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」には、親子の間にある甘えは、他人には通用しないことも伝えているように感じます。
まとめ
「母の折檻より隣の人の扱いが痛い」という言葉から、親の愛情の深さを想像するのは、なかなか難しいですよね。
この言葉が親側から生まれたのか、それとも子供側から生まれたのかによっては、意味も違うような気もしますが・・。
「親の愛情の深さを感じなさい」という意味であることは間違いないようです。