冬瓜はかなり大きな実を生らせるのですが、花の段階で見たことがある人はそんなに多くはないでしょう。
冬瓜というので冬に旬を迎えるのかと思ったら、じつはそうではくて収穫しても長期保存が可能で、瓜の種類は夏の旬が多いので、他の瓜の種類の野菜や果物が取れなくなった冬にも食べることができるので冬瓜と呼ばれるようになったそうです。
柔らかく煮ると美味しい冬瓜ですが、冬瓜の花の百一つということわざは美味しさとは関係ないようです。
冬瓜の花の百一つということわざについて調べています。
冬瓜の花の百一つの意味とは
冬瓜の花の百一つとは、数ばかり多くても実際にはその中のごくわずかしか役に立つものがないという意味です。
冬瓜の花がそんなに沢山咲くなんて、見たことが無い人にはピンとこないことわざですが、冬瓜のような大きな実を生らせるのに、花の数が多いのはたしかに不自然です。
ほとんどは実を結ぶこともない花なので、無駄に咲いて終わってしまいます。
沢山の花の中でも、実を生らせる花はごくわずかだから、ことわざに使われるわけですね。
数だけ多くても役立たずあるある
冬瓜の花の百一つは、数ばかり多くて役に立つものがほとんどない意味のことわざですが、実生活の中でこのことわざを実感することが多い人は、ムダの多い生活をしているのではないでしょうか。
私はまさに無駄ばかり多い生活をしているので、ものすごく耳が痛いです。
ストックしておきたい性格なので、日用品は常に買い溜めしていますが、買い溜めするだけで使わないものも沢山あります。
収納スペースが限られているので、使わないまま捨ててしまうなんて勿体ないことをしてしまうことも・・。
洋服もそうです。
洗い替えに・・とか、安い時に買っておこう・・とか言いながらついつい増えてしまいます。
でも、枚数ばかり沢山あっても、着るものはごく限られています。
断捨離の基本として、二年、三年着なかった洋服は処分すると言われていますが、買って一度しか着ていないものも数多くあります。
クローゼットの中に沢山の洋服があるだけで、実際に役に立つのはごくわずかなので、冬瓜の花の百一つということわざがぴったりと当てはまります。
ミニマリストには無縁のことわざ
ミニマムな生き方をする人のことをミニマリストと言います。
ミニマムとは、必要最低限のもの以外は持たないことです。
究極のミニマリストになると、洋服はほとんど持っていないとか。
そんな暮らしを実際にしている人には、冬瓜の花の百一つなんてことわざが当てはまるような場面はほとんどないでしょう。
役に立つ物しか持たないというよりも、使う物しか持たないのですから、ムダなことは無くなります。
憧れますが、多少の無駄も生活には必要ではないか?と思う気持ちが残っているうちは、ミニマリストにはなれないでしょうね。
まとめ
冬瓜の花の百一つということわざが生まれるほど、冬瓜は実にならない花を沢山咲かせるのですね。
でも、その花が咲くのは何かきっと意味があると思うのですが、その意味までは知りことはできませんでした。
もしかしたらみつばちのためかな?
そんなことを考えると、無駄もムダじゃない感じがしてきました。