他人の飯には骨があるとはどんな意味のことわざなの?

ことわざ・慣用句

他人の飯には骨があるとは、いったいどんな意味なのか知っていますか?

ことわざなので、何か伝えたいことがあるのでしょうが、言葉をそのまま読んでも意味がわかりません。

他人の飯には骨がある・・・ご飯が骨みたいにかたいってことかな。

 

他人の飯ってのがまずよくわからない。

そうなんですよね。

他人の飯についてどうのこうの言うのは、理由があるはずです。

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他人の飯には骨があるとは

他人の飯には骨がある。

このことわざの意味は、

他人の家の世話になるのは気を使うので、気苦労が多いという気持ちを表現したものです。

他人の家でご飯を食べるのも、遠慮しがちなので、味わうこともできず、喉を通る時にまるで骨でも混ざっているように、つっかえるという意味なんですね。

もう一つ意味がある

他人の飯には骨があるということわざの意味は、もう一つあります。

それは、他人が親切にしてくれたり、見返りを求めずに好意を示してくれるのは、素直に甘えてはいけないというものです。

他人の飯には刺があるとも言います。

これは、見た目の美しさに油断してはいけないという意味の、「綺麗なバラには刺がある」と通じるものがありますね。

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他人の飯には骨があるに似ていることわざ

他人の飯には骨があると似ているけれど、少しニュアンスの違うことわざがあります。

「隣の飯よりうちの粟飯」
「よその米の飯よりうちの粥」

この二つのことわざは、他人の家で気を使いながら食べるご飯が白米だとしても、自分の家で誰にも気兼ねせずに食べる粟飯や粥の方が美味しく感じるという意味です。

対義の意味を持つことわざ

他人の飯には骨があるということわざの意味とは反対のことわざもあります。

「他人の飯は白い」
「隣の芝生は青い」
「隣の花は赤い」

隣の芝生は青いとは、今もよく使いますよね。

同じ芝生でも、なぜか隣の庭に生えている芝生の方が青々をして見えるってことです。

何でも他人のものがよく見える人っていますよね。

子供の頃に、友達の家を羨ましがってばかりいると、「じゃあ、○○ちゃんの家の子になったら?」なんて親に言われた記憶があります。

子供心に、いくら羨ましくても、その家の子になって同じように可愛がってもらえるとは思えないので、黙ってしまった記憶があります。

他人の家で親切にされるのも、気を使うものですよね。

まとめ

他人の家でご飯をごちそうしてもらう機会があっても、それはお客としてもてなされます。

それでもやはり気を使うものです。

居候となれば、気苦労もスゴイでしょうね。

そういう空気を感じない鈍感な人は、大物になれるかも知れません。