日本列島は小さな島が集まっています。
世界から見れば小さな島国ですが、こんな小さな国の中にも様々な文化があります。
食文化も各地の特色が豊かです。
和食が世界から注目されるようになりましたが、和食にも各地の特徴があります。
わかりやすいのが、関西と関東の味付けの違いです。
関西の方が薄味で、関東は濃い味付けなのは有名です。
ではなぜ関東の味付けが濃くなったのでしょう。
その理由を解説します。
関東が江戸の町に発展するまで
関西は出汁文化で、醤油も薄口の色が薄いものを使うことが多いのに対して、関東は濃い色の醤油を使います。
関東の味付けが濃い味付けになったのは、徳川家康が関東を領地として与えられたことから始まります。
徳川家康はもともと今の愛知県と静岡県をまたいだ三河の国が領地でした。
三河の国は京や大坂へ通じる土地でもあり、天下を安定させるための重要な土地です。
ところが、豊臣秀吉は徳川家康の力を恐れていたのか、表面上は石高を上げるように見せて、関東を領地として与え、三河の国を取り上げてしまったのです。
関東を治めていた北条氏と徳川家は繋がりが強かったこともあり、豊臣勢が北条攻めをした後の関東を徳川に与えることは、嫌がらせの意味もあったのでしょう。
しかも関東平野は荒地ばかりで、まともな田畑も少ない荒野でした。
徳川家康は三河の国を失い、荒れた土地に国替えをさせられたことに奮起して、あっという間に荒地の関東を見事な街に作り変えます。
江戸城を整備し、河川を整え、人々が暮らしやすい街を作るために人をどんどん集めて工事を始めます。
そしてわずか10年ほどで、江戸は世界でも有数の人口密集都市となったのですから、徳川家康はかなり意地になって江戸の町作りに本気だったのでしょう。
関東平野の街づくりが濃い味の理由
人の労働力が全てだったので、とにかくたくさん働いてもらうために米をたっぷり与えて体力をつけさせようとします。
そこで必要になったのが、味の濃い「ご飯がすすむおかず」です。
醤油で煮詰めた佃煮のようなものや、塩で漬け込んだ野菜などで大量の米が食べられるようにしたというのです。
それが濃い味付けのもとになったそうです。
江戸の町が整備されると、徳川家康は尾張や三河から商人もどんどん呼び寄せます。
もともと濃い味の食文化ではなかった尾張や三河の国の人たちも、米を中心とした食生活の江戸で暮らすようになり、味付けの濃いものを好むようになったのです。
一度濃い味になれてしまうと、なかなか薄味に戻れないものですからね。
江戸に暮らす人は、庶民でも米が中心の食生活だったそうです。
一説には、一人で一日5合食べるのが普通だったようです。
一食で3合食べるくらいは、大した量でもなかったみたいです。
塩辛い味付けのご飯のお供のために、濃い味付けが主流になるのも納得です。
ただ、江戸時代になると米を精米して玄米ではなく白米で食べるのが主流になってきます。
そうなると、玄米で補ってきたビタミン類が摂れなくなります。
それが原因で、今で言う脚気という病気(当時は江戸わずらいと呼んだ)が多くなったのです。
玄米よりも白米の方が柔らかくて食べやすいので、精米した白米を食べる機会が多い身分の人ほど脚気になりやすかったようです。
ビタミン欠乏で脚気になると、死に至ることもあったので、食生活は重要ですね。
まとめ
関西風の味付けは、見た目の印象で薄味に見ますが、薄口しょうゆの方が塩分濃度は高いのですよね。
出汁がしっかり利いていれば、少量でもいいのでしょう。
塩分の摂り過ぎには注意しましょうね。